2020.06.15
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【追悼】小児科医・川崎富作さん―全身の血管に炎症「川崎病」を発見

メディカルサポネット 編集部からのコメント

全身の血管に炎症が起きる原因不明の乳幼児の疾患「川崎病」の発見者、川崎富作さんが老衰のため逝去しました。川崎さんは1967年、日赤中央病院(現日赤医療センター)に勤務中に遭遇した小児患者の高熱、頸部リンパ節腫脹、眼球結膜の充血、全身の発疹などの症状が表れる症例50例をまとめて未知の疾患として報告。後に「川崎病」(Kawasaki disease)は国際的に認知され、川崎さんは原因解明や予防法の確立に尽力しました。ご冥福をお祈りします。

 

全身の血管に炎症が起きる原因不明の乳幼児の疾患「川崎病」の発見者として世界的に知られる川崎富作さん(日本川崎病研究センター名誉理事長)が6月5日、都内の病院で老衰のため逝去した。日本川崎病研究センターが10日、発表した。享年95歳。

 

日赤医療センター小児科部長時代の川崎富作さん

日赤医療センター小児科部長時代の川崎富作さん

川崎さんは1925年、東京・浅草生まれ。48年千葉医大医専卒。

 

日赤中央病院(現日赤医療センター)小児科勤務中、高熱、頸部リンパ節腫脹、眼球結膜の充血、全身の発疹などの症状を呈する小児患者に遭遇し、1967年に同様の症例50例をまとめて未知の疾患として報告。後に「川崎病」(Kawasaki disease)として国際的に認知されるようになった。86年ベーリング・北里賞、87年武田医学賞、88年日医医学賞、91年日本学士院賞を受賞。

 

日赤医療センター小児科部長などを経て、90年に川崎病研究情報センター(現日本川崎病研究センター)を設立、川崎病の原因解明、予防法の確立などに打ち込んだ。

 

学歴社会・点数至上主義を批判

 

日本医事新報誌上では、「いわゆる川崎病について」(1976年)、「川崎病研究の現況」(2005年)などで川崎病研究の成果を報告するとともに、座談会「これからの小児科医は?」(1979年)、プラタナス「フェアプレーの精神」(2007年)などで子どもの教育のあり方についても積極的に発言し、学歴社会や点数至上主義の根本からの見直しを訴えてきた。

 

以下、日本医事新報のバックナンバーより川崎さんの発言を再録し、故人の功績・人となりを偲びたい。

 

「誰言うとなく“川崎病”なる名称がつけられ、通称されている」 (日本医事新報1976年6月26日号 川崎富作ほか「いわゆる川崎病について」より抜粋)

「勉強は勤勉さだが、学問は遊び心」 (日本医事新報1979年9月8日号 座談会「これからの小児科医は?」より抜粋)

「自分の名の冠された疾患が外国の教科書に載る、これ以上の光栄はないですね」 (日本医事新報1988年10月29日号「人 川崎富作氏」より)

「明治以来の東大を頂点とする受験競争や点数至上主義の阿呆らしさ」 (日本医事新報2007年4月21日号 プラタナス 川崎富作「フェアプレーの精神」より)

 

 

 

「誰言うとなく“川崎病”なる名称がつけられ、通称されている」 (日本医事新報1976年6月26日号 川崎富作ほか「いわゆる川崎病について」より抜粋)

 

はじめに

 

いわゆる川崎病の本名は、“指趾の特異的落屑を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群”という長い病名だが、長すぎるので次第に略され、最近では“MCLS”の略称が医者仲間で通用している。しかし親達にはこの病名ではピンとこないので、誰言うとなく“川崎病”なる名称がつけられ、通称されているのが現状である。しかし、この病名も一般には、川崎市の公害病と混同されている向きが多い。

 

そこで、本症の特徴を要約すると、本症は主として4歳以下の乳幼児に好発する原因不明の急性熱性発疹性疾患で、大部分の症例は治癒するが、一部に冠動脈血栓症で死亡したり、冠動脈瘤などの後遺症を残すことがあり心筋梗塞を起こしうる小児の新しい心臓病として小児科領域で注目されている。

 

本症は昭和43年頃より年々増加の傾向にあり、現在までに我が国で既に1万例を超す症例が経験されている。昭和45年度より厚生省の研究費による本症研究班が発足し、疫学、病因、病理、臨床の各方面にわたる総合研究が続けられ多くの新知見が得られてきたが、未だに原因が不明なので早急に病因を解明し、不幸な子どもの発生を防止する対策の確立が望まれている。

 

 

 

「勉強は勤勉さだが、学問は遊び心」 (日本医事新報1979年9月8日号 座談会「これからの小児科医は?」より抜粋)

座談会出席者:川崎富作(日赤医療センター部長)、木島 昂(東村山市・開業医)、小池麒一郎(東京・中野・開業医)、小林 登(東京大学教授)、松尾宣武(都立清瀬小児病院医長) ※肩書は当時

日本はワーカホリック

 

川崎 いまの小林先生の話でね、結局日本人というのは、日本の国全体が働き過ぎですよ。働くことは美徳だけれども、休むことは罪悪であるという考え方が、特にエリートあるいは指導者層に非常に強いんですね。だから、今日までやってこられたのも事実なんですが。だけれども、ここで、意識の転換をして、やはり時間をもっと大切にし、もっと余裕を持って、休みを持って、次のエネルギーを養うような、余裕のある指導というかな、そういう方向に日本の国も早く行ってほしいと思うんですね。女性ばっかりが休みをもらったって、亭主が一緒にもらわないと、何にもならないですからね。(笑い)

 

木島 ただね、日常診療において子どもを診ていましてね、いろいろ子どもの家庭とも親しくなる。そのうち塾でも何種類かの塾に学校から帰ったらやらせていることもわかってくる。子どもには無理だからいいかげんにやめなさい、遊ばせたらどうですかとわれわれが口をすっぱくして言っても、子どもの親ごさんは親ごさんとして、だけど先生、と真剣に切り返してきますよ。現実にいい学校へ入れなかったらどうするんですかと。社会に出てから隣りの子に負けたらどうするんですかという訴えが、親しければ親しいほど親ごさんから返ってくるわけですよ。まるで「うちの子どもの未来、生活を保証してくれますか?」(笑い)といわんばかりの勢いですね。なるほどこうした問題は日本の未来ということを考えたら大変なことなんだということは有識者は誰でも気軽く言ってますが、さて小児科医として、そういうことが社会に大きくプラスする力となるためには、一体どうすればいいんですか。

 

小林 むずかしいですね。(笑い)

 

木島 個々の診療では、皆さんそれを患者さんの家庭にはぶつけておられると思うんですよ。

 

小林 それに関して、学問として真剣に取り組むことも、私は一つあると思うんです。小児科学が。それはなぜかというと、そういうことが取り込められるぐらい、安易に言うと、学問の理論体系が、従来になく変わってきましたよね。たとえば従来の心理学の方法論で、心理の発達の問題なんかやっても、われわれはあまり臨床的に興味は持たないけれども、いまの新しい考え方、母子相互作用という考え方を見ていると、それ自体だって相当学問的情熱をかき立てるに十分なくらい、おもしろい論理ですよね。だから小児科学が、一つはそういう体系、そういう子どもの問題の中にも入っていく人がたくさん出てこなければいけないんじゃないかと。そして学問の上の業績なり成果が出てくると、今度は説得力を持ってますよね。その説得力を持ったものでキャンペーンしなければいけないということが、一つあると思うんですね。

 

第二は、これは九大の遠城寺(宗徳)先生などが、私は昔から偉い先生だと思うのは、教育学と小児科学は切っても切れない縁があるんですね。たとえばあるジャンルがあらゆるパラメーター、数学だとか、国語だとか、そういうもの全部ではかって、ある程度以上あるやつは優秀だと。教育学の論理で言うとまさにそうなんですね。だけども人間というのは、ある一つの能力だけをうーんとよくしても、やっぱり同じぐらい価値があるわけですよね、言うなれば。棟方志功なんて、ある意味でそうでしよう。あの人は、彫ることが全てでしょう。しかし、あの人だって、人間の持っている能力を版画というものを通して十二分に発揮した人間だと思うんですね。そういう人間も、やっぱり人間の生きていく社会の中では意味があるんだという立場を取ればいいんじゃないかと思う。

 

川崎 日本のお母さんたちが、結局小さい子どものうちから一生懸命勉強をさせて、いい人生の切符を持たせようとすることが、いろんな問題を起こしてくるわけです。わが国の教育が、明治から今日まで一貫しているのは、勉強のできる人をピックアップするという点ですよ。だから、そういう価値観にだけ教育が集中している。小学校から大学まで。

 

ある友人が言ってましたけれども、日本の国の教育というのは、運動にたとえれば100メートルだけを競争させる。昔は“十で天才、十五で才子、二十過ぎたらただの人”といってたじゃないですか。そのただの人になるちょっと前で、点数だけで人間の価値を決めちゃって、それから先は本当の競争をさせないというか、もう決まったなかでやらせる。あとは本当の意味の競争がないと。でも運動にはマラソンの能力のある者もいれば、砲丸投げのうまいのもいる、それこそ走り高跳びのうまいのもいて、いろいろ能力があるんだ。ところが日本の教育は大学受験に100メートル競争ばっかりさせて、そのとき、10秒フラットなのか11秒なのかというところで全部振り分けてしまって、それから先は、もうかつての栄光だけで最後まで行っちゃうと。マラソンの能力などは全く考慮されていないところに非常に大きな問題があるんじゃないかということを言っている友人があるんですよ。

 

小林 それは一つの真理でしょうね。

 

川崎 欧米先進国のように、大学に入るのは比較的楽だが、それから先が厳しい教育になってきて、社会へ出るとさらに厳しくなるというパターンがない。日本の国は、いわば代理戦争ね。子どもたちに代理で競争させておいて、大人には本当の競争がない。元来、大学に入るのは学の始まりのはずなのに、恰も終着駅の感がつよく、特に日本を支配する官僚社会には学歴しかない。

 

この間イギリスの日本を研究している学者―─東大にも留学したことがあるという人が新聞に載っていたのですけど、彼の話によると、どこでも学歴社会でそういう傾向があるけれども、イギリスには、官僚機構をオックスブリッジ(=オックスフォード大学とケンブリッジ大学)だけで占めるというような、そういうパターンはないと言うんですよ。だからいろんな大学出身者がなれる。オックスブリッジで良を取った者と、地方の大学で優を取った者ならば後者の方がより優先されるという、そういう価値観があると言うんですね。そこが日本と違うんだと。遊んでいるときの子どもは目が輝いてますよ。本来勉強は勤勉さだが、学問は遊び心ですからね。

 

小林 浅利慶太さんの話でおもしろいなと思ったのは、日本でどうにもならない学業不振児だったと。ところがイギリスへ行ったら、何か一つがよくできると、それだけでもう高く評価されるというんですね。

 

川崎 これは今まではよいとしてこれからの百年を考える場合に、よほど考え直さなきゃならん転換期に来ているんじゃないか。そこにはやはり官僚機構を、各大学出にも開放して、もっと受験というものを緩和させていく、という欧米の大人の価値観に近い形にさせない限り、子どもは幸福にならないし、真の民主主義社会、個々の人格と自由とを基盤とした個性を尊重する社会は育たないし、創造性豊かな能力も過去のようにつぶされてしまうと思いますよ。もっとも、その方が官僚支配には都合がよいとは思いますけれども。

 

 

 

「自分の名の冠された疾患が外国の教科書に載る、これ以上の光栄はないですね」 (日本医事新報1988年10月29日号「人 川崎富作氏」より)

「自分の名の冠された疾患が外国の教科書に載るということは、一臨床家として、これ以上の光栄はないですね」

 

昭和36年1月、高熱、頸部リンパ節腫脹、結膜・口腔粘膜の充血、全身の発疹を伴い、しかも猩紅熱に似て非なる症状を呈した4歳3カ月の男の子が最初の症例。病原体もつかまらず、ペニシリンも効かない。では診断は何かとなると、「?」ということになってしまう。

 

この第一例の印象は強烈だった。「翌年、再び同様の患児に出会ったときは、ひそかな興奮さえ覚えた」という。

 

小児科学会千葉地方会、「アレルギー」誌に、「指趾の特異的落屑を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜琳巴腺症候群」と題して発表したところが、全国から追加報告が相次ぐ。

 

後に、血栓閉塞から突然死に至ることもある重篤な疾患として、45年には、厚生省研究班が発足し、本格的な研究が始まった。

 

この「?」は若い川崎さんの脳裏を片時も離れなかった。ジュゲムジュゲム式の長い病名は、発見の名をとり“川崎病”と呼ばれるに至る。氏自身は、“川崎病”とは、こそばゆくて口にできずに、“その病気”とか“それ”とか代名詞を使ってしまうらしい。

 

発見から20年以上経た今でも原因は不明である。「何らかのごくcommonな感染微生物が引き金となって、ある特殊な体質を持つ子供に、免疫異常を起こす、という仮説が有力ですが」

 

一筋縄ではいかない川崎病の発症のメカニズムには、学問的にもユニークな医学上の問題をはらんでいる、何より世界の研究者を刺激するだけの新しい問題を提起した─これらの業績により、62年にベーリング北里賞、武田医学賞、そして今秋保健文化賞、日医医学賞をたて続けに授与される。

 

「臨床家の日常は、診察した患者に正しい診断をつけ、治療に専念することに尽きます」と言う。“猩紅熱に似て非なる疾患”は当初学会側から、類似の“Stevens-Johnson症候群”の一型とされるなど、認知に至る過程で紆余曲折があったことも否めない。しかし“診断がつかない”“未知なるもの”にこだわり続けた。

 

昭和23年千葉医大医専卒後、同大小児科に入局。2年後、日赤中央病院(現日赤医療センター)へ。後に愛育病院に移った内藤寿七郎、神前章雄、ペルガー氏家族性白血球核異常を発見した小久保 裕氏の個性的な3人の師と出会い、支えられ、以来、日赤を本拠に48年から小児科部長。

 

大正14年、東京・浅草生れ。ベーゴマ、メンコと聞くと身を乗り出す下町っ子。「海外出張の時はケン玉が必携。言葉のかわりにケン玉の妙技を披露して相手を煙に巻いてしまうんです(笑)」

 

 

 

「明治以来の東大を頂点とする受験競争や点数至上主義の阿呆らしさ」 (日本医事新報2007年4月21日号 プラタナス 川崎富作「フェアプレーの精神」より)

 

1987年、「エリートはこうして育てられる」というNHKの特集で、ハーバード大学の様子が放映されました。

 

筆者はこの特集で“フェアプレーの精神”が大学教授の選考にも適用されていることを初めて知ったのです。日本では、フェアプレーといえばスポーツに限って使われている言葉ですが。

 

さて、その特集では、「入学者選びの方法」「教授の選考」などのテーマについて述べていました。

 

入学者選びでは、全米のみならず全世界から志願者が集まりますが、すべて各高校からの推薦であり、日本のようなペーパーテストは行っていません。志願者の地元のハーバード出身の先輩が志願者の出身高校に出向き、面接を繰り返し、家族や高校の教師とも会って、志願者の特性をよく調べます。そして最低3カ月を費やしてあらゆる角度から一人ひとりの素性を調べ、先輩たちによる報告書と出身高校の内申書、成績などを参考に入学者を決定するというものです。奉仕活動や部活動で優れた記録を出したり、リーダーシップを発揮した者は有利とのことでした。

 

筆者はこれをみて、日本の明治以来の東大を頂点とする受験競争や点数至上主義がいかに阿呆らしいかをつくづく考えさせられました。なぜなら、日本の一流大学を出ても、多くの人が米国に留学するからです。

 

また教授選びについては、選ばれた選考委員2名が、毎年どこかの都市で行われる全国的な教授選考会議に出向いて、希望者名簿から適当と思われる人材を選び、面接して、採用の可否を検討し、採用側と就職希望者側とで条件が合った時、選考が終わるというのです。

 

強い印象を受けたのは、ハーバード大では教授選考の第一条件が自校出身者以外であるという点です。自校出身教授が多くを占めるのはアンフェアで不健全であると説明していました。利根川 進氏は「米国の科学者や科学行政の担当者は、長い経験から“基礎科学の環境で非常に重要なのは、どうやって純系化を防ぐか、言い換えると、異質の経験、異質の文化的背景を持った人をどうぶつけるか、それが新しい発想を生むのに役立つ”ことを知っている。マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授でMIT卒業生は7%にすぎない」と述べています。

 

明治維新後140年、敗戦後でも60 年以上経つのに相変わらず子どもにのみ厳しい受験競争をさせて、指導者の教授には(いや官僚や政治家にも)アンフェアな行為がまかり通るわが国の現場を根本的に改める必要があると考えます。

 

出典:Web医事新報 

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